堺工業高校・堺工科高校
「創立80周年記念」文集

 
 母校「創立80周年記念文集」へのご寄稿、どうもありがとうございました。謹んで、ここに掲載させていただきます。   
雪陵会・事務局




12e「サンニィ会」文集
作成日 平成28年10月
編 集 林 義男 5名分




 生きがいのある人生を

12e 古川承元(梅田)

 大阪府立堺工業高等学校夜間を卒業して60年近くになりました。学校在籍中は学校に行くのが、楽しくて、楽しくてたまりませんでした。級友の数名は他界しましたが、生き残っている私たちがその分まで生命をつないで頑張っています。ただ生き長らえているのではなく生涯現役を続ける気持ちで社業に専念しています。

 級友の林君にホームページを頼んで作ってもらい数年になりました。開発した製品も数種類になり、最近、もみ殻を炭にする装置「もみ殻炭化装置」を開発し、農家の方から褒められ、「千葉県のものづくり認定製品」となり、農業業界の利益向上になることもわかり、今年は販路を広げ、肥料を使用せず、米の有機栽培ができることで農家の方々に応援出来るのではないかと思っています。農業業界全般では高齢化のため、ホームページは見ないようで、情報を得るものは数少なく、主に農機の展示会、農業新聞の宣伝広告等で勉強している状況です。これからの農業は法人化が進み若い農業経営者が多くなる時代になり、農業も大きく変わって行くことが想像されます。

 
開発した、もみ殻炭化装置が農業全般の経営に有益になることを願って日々頑張っています。12eサンニィ会(クラス会)の諸兄と共に生きがいのある人生を全うして行きます。




役にたっています、パソコン教室

12e 門脇 康三(旧姓 岡本)
 平成16年、12eの同窓会幹事の大変無理難題のお願いにもかかわらず、心よくの春休みと夏休み期間中に、雪陵会会館をお貸しくださり、また、母校のパソコンをお借りできる手はずまでして戴き、パソコン教室を開くことができましたので、喜んで参加しました。

 春休み中にword 6日 夏休み中に execl 6日 計12日の講習を受け無事修了証を戴くとこができました。早速、windowsXP を購入、以後、windows 8、windows 10、へレベルアップし現在に至っております。

 平成15年、友達20人とバス旅行に行ったところ、またどこかに行こうと話が出て、梅、桜、ソバの花、ラッキョウの花、ニッコウキスゲ、コスモス等、秋には紅葉を求めて、浜松の花博にも足を延ばしました。正月には、豊川稲荷、最上稲荷、多度神社、千代保稲荷神社、年に2回は1泊2日で妙高高原、野沢温泉、上田城、別所温泉など、関西からは遠くて行きにくい所にも行きました。平成19年1月諏訪大社の初詣を最後にバス旅行は高齢者達(最高84歳)の体力を考えて終了しました。その後、近隣持ち回りの自治会会長の任にも当たりました。 パソコンが使えたお蔭で、バス旅行の行き先や開花予想を調べ、施設の割引クーポン券を印刷して利用できました。自治会長のときは、文書作成から、事務処理をパソコンでできましたので、自治会役員、会員の方々にご迷惑をお掛けすることなく、無事任期を満了することができました。現在も文書作りや調べものに大変重宝しています。当時の雪陵会事務局の皆様に創立80周年記念文集の場をお借りして、心より厚く御礼申し上げます。今後もよろしくお願いいたします。




苦学生だったのか

12e 谷 雅 夫
 過去を思い出すために数少ない記録を開いてみました。昭和28年入学(編入含む)全体で232名中、卒業140名、私たちのクラスは入学49名中、卒業29名で、当時は生活と仕事その他諸般の事情によりに同期に入学し卒業できず脱落された方が、相当数おられた事にあまり気付きませんでした。私の母校、泉北郡泉が丘町立久世中学校からも私を含め機械工作科@2名・機械工作科A1名・機械材料科1名・計6名入学、幸い全員卒業いたしました。私自身4年間よく頑張って卒業したなと自負しております。

 昭和30年代から第1次高度経済成長期に入り昭和39年東京・オリンピックが開催されました。4年前癌治療入院時はロンドン・オリンピックを病床で、本年は自宅でリオ・オリンピックを視聴いたしましたが、4年後の東京・オリンピックも視聴出来るよう頑張っていきたいと思います。

 過去を思い出すうち今頃になって「苦学生だったんだ」と気付きました。今後も12eサンニィ会(クラス会)各位とお会いできることを楽しみに健康回復に努力してまいります。




うどんが楽しみで通学

12e 林 義 男
 昭和28年入学、13号線側に立派な校門その左側の通用門から登下校していました。校門正面の立派な校舎は府大が使用していて、高校生の校舎は、通用門をくぐってすぐ左折れ右に折れ奥の教室に出入りすることになっていました。

 当時、中卒の初任給は、4.7千円〜5千円、大卒で8〜9千円でした。定時制高校の授業料は4百余円、毎年値上がり、卒業時は6百円近くになりました。納付を忘れると事務室に滞納者リストが貼り出され、すぐ級友が教えてくれました、これはなまの生きた教育でした。

 電気科入学当初は新入49名と留年の1名を加え50人、夏休みを過ぎると5〜6名、冬休みを過ぎると4〜5名出席しなくなり、2年生に進級したのは39名、途中で昼間に変わった方も2名おりましたが、4年間の通学で卒業したのは29名でした。授業料免除、補助の制度はありません、授業料が払えないという理由での退学ではなく主に仕事(会社)が理由で通学できない状態になったようです。毎日の通学で残業ができません、仕事に慣れ夏休み冬休みに残業するようになり、学校が始まって残業を断ることができず、授業について行けなくなるからでした。幸い私は残業の少ない会社でしたので、遅刻はしましたが通学はできました。昼夜間同一校でしたから、卒業証書も同一です、でも、私の会社でも、卒業しても高卒は認めてもらえませんでした。世の中が定時制卒を認める機運が高まり、昭和40年(卒業後8年目)、定時制卒業者に対し、1回限りの社内の能力検定試験が行われ合格することができましたので、社員に昇格することができましたが、昇給はありませんでした。

 話は戻りますが、通用門の左側に食堂があり、いつもうどんだしの匂いが漂う中、仕事帰りの定時制生徒は空腹に我慢できず毎日立ち寄り、通学の楽しみのひとつになりました。扇風機はありません、ストーブは入学の2〜3年後に入りました。夏は大汗をかきながら、冬は竹筒に入った一味唐辛子をうどんが赤く染まるほど振り掛け寒さを凌ぎました。うどんは入学時、素うどんだけで10円でしたが、すぐ値上げがあり、きつねうどんが出来、20円になりました。街の食堂は、きつねうどん35円でした。食管法により食堂で米飯が自由に販売できなかった時代でしたが、徐々に緩和され、また、NHKテレビの本放送も始まった時代でした。雪陵会ニュースに昭和33年定時制完全給食実施の記載があり、思い出しました、昭和32年1月から給食が始まりました、お試し期間だったのでしょう、週1回、コッペパン1つだけ飲み物などはなし、卒業式は2月末だったので5〜6回くらいは頂戴したでしょうか。




日々感謝の気持ちを

12e 椋木 義治
 私は今年78歳になりました。その間いろんな出来事に出合い何とか生き延びて来られました。終戦直後の物の無かった時代、食べる為一生懸命働いて、又学校は夜間の高校に通いました。今日当時の同窓生と会い思い出話や今の生活状況、体調の事など話をしていると、よう生きて来られたと感謝の気持ちで一杯です。日々の感謝は、今日迄私を支えてくれた母ちゃん、ずい分無理を云って困らせたものです。そして両親、苦しい生活の中私達兄弟を食べさせ育てて下さった、又、身の廻りの友達、学校の先生、職場の同僚など数え切れない程多勢の人々に支えられて来ました。全て感謝、感謝です。

今世間では新電力といって騒いでいますが、関西電力で長年御世話になっています私にとっては、電力の自由化で色々な電力供給会社が出来、どの会社で電気使用の契約をしてもよい事になっています。長年の恩義と毎日の生活を考えた時、この年齢になりますと経済的な理由よりもたとえ料金が高くなっても長年御世話になった会社を選ぼうと思います。長い人生の中で自己の利益よりももっともっと大事なものがあると最近感じる様になりました。

人を大事にし、物を大切にする事、日々感謝の気持ちを忘れない事が自然に出来る様になれば本当の幸せがめぐって来るものだと思う様になりました。会社の中で知り合いの人、お客様の中で知り合った人、近所の人、住宅内で仲良くなった人の約半数の人々が亡くなりました。私自身も行先短い中、何とか幸せを感じながらあの世に旅立ちたいものです。ありがとうございました。

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